『「わかりあえない」を越える』にまつわるあれこれ -NVCの実践

最近、とても気に入っている本がある。NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)を体系化したマーシャル・B・ローゼンバーグ博士の著書で、日本語に訳されたものとしては2冊目の『「わかりあえない」を越える(海土の風)』(英治出版)である。

あまりに気に入っているので、オンラインや対面で何度も読書会を開いている。参加してくださる方はNVCを長く学んでいる方から、「NVCって何?」という方まで様々だが、毎回、参加したみなさんに“目からうろこ”的な気づきがあったとか、その後の日常生活で「実践したらこんな気づきがありました!」とかの報告をもらう。ただ、読んで知識として蓄えるというより、実践してみようという気にさせ、実践してみたらこんなことに気づいた、といった具合に、行動を促すタイプの本だなあと思っており、そこがまた、私の気に入っている理由でもある。

タイトルの『「わかりあえない」を越える』というのも、何らか、人を刺激するらしい。NVCは聞いたことも、学んだこともないという方が、読書会に参加される理由の多くが、「周りとわかりあえないことに、長年悩んできたので、どうやったらそれを越えられるのか切実な興味があります」というものだ。

一方、違った意味の刺激も発生しているらしい……。「“わかりあえないを越える”なんて甘っちょろい理想論だ。そんな本が好きだと喧伝している中村真紀もやはり理想追い求め型の甘ちゃんだ」と思っている人もいるみたいだなあ、ということを、なんとなく感じるようになったのだ(汗)。

そういえば、最近、何かで(出典覚えていません)人間関係はわかりあえなくて当然だ。それを何とかすればわかりあえるかもしれないと期待するから問題が発生する……という主旨の記事を読んだことを思い出す。

そして、その文に書いてあることに、実は、私も賛成なのだ。同じ人間だからといって、一人ひとり価値観も持つ背景も違う。わかりあえて当たり前ではない。わかりあえなくて当然なのだ。では、わかりあえない前提の周りの人たち(たとえ、家族やパートナーや友人であったとしても)と、私たちはどうありたくて、そのために何をすればいいのか。

私は、わかりあえない前提の他の人達とも、一人の人間としてつながったり、尊重しあったり、大事にしあったり、切磋琢磨しあったり、一緒に何かを作り上げたりできたらいいなあ、と願っている。そうすることができたら、どんなに素敵だろうと思っている。これには理屈はない。単に人間という生物の自然な願いでもあると思う。単純だとか甘いとかいわれても、これは私の強い願いだ。その強い願いを簡単にあきらめるつもりはない。だって、私の一度きりの人生なのだから。

もちろん、世界中のすべての人と、上記に書いたようなことができるとは思っていない。何よりもまず、物理的に無理だ。そして、人にはそれぞれの特性とかお互いの相性というものもある。どんなに、お互いがつながりたいと思っても、会うたび、話すたび、お互いをいらいらさせたり、傷つけあったりするような相性の人もやっぱりいるのだと思う。

それでも、私はできるなら、距離はとるかもしれないけれど、その人がその人らしくいること、そして元気にその人らしく生きることを願いたいし、尊重したい。その人が私と相性が悪いからといって、こらしめてやろうとか、バチがあたればいいとか思わないし、思いたくない。正直なところ、これまで、そんな風に思ったことがないわけではない(むしろ、いっぱいある)からこそ、もう二度とそうは思いたくないと強く願う今の私がいるのだ。

マーシャルの本は机上の理論ではない。マーシャルはシンプルともいえる理想と、実世界における現実との間で格闘してきた実践家だ。この事実も私がこの本に激しくひきつけられる要素である。

ここでひとつ、「ただの机上の空論ではない」ことを示す文章を引用する。

“そうかと思えば、はるかに深刻な問題を抱えた参加者もいて、そういう人たちはNVCの実践方法を切実に知りたがっています。たとえば、ルワンダのような場所では、人々はこんなことを尋ねてきます。

「隣人とどう付き合えばいいんですか。私の家族を殺した人間ですよ?」“

向きあうべき想像を絶する「現実」がそこにある。

さて、最後に私がこの文章を書いた理由を述べる。中村真紀が甘っちょろいことを感じて(ちなみに、これはNVCでいうところの「観察」(誰にとっても客観的な事実)ではなく、中村真紀の解釈、ジャッジ、ストーリーだが……)、反応して、自己防衛していると思う向きもおられるかもしれない。そうかもしれない。ただ最近、自分の課題として、むやみに葛藤を恐れない。つながることを願いながらも、健全な葛藤や対立には正面から向かい合うということがある。

今までの私だったら、自分と違う意見を聞いたとき、対立したくないので、耳をふさぐ、逃げる、聞かなかったふりをする、といった反応をしたかもしれない。でも今回は、「私はこう思っている」ということを伝えようと思った。この意見に賛成するも反対するも、それぞれの人の自由だ。少なくとも、今の私はただ逃げるのではなく、私は、だから、「わかりあえない」を越えたいのだということを表明しようと思った。

ただ、それだけのことだ。

<文責:株式会社まんま代表 中村真紀>