【非暴力コミュニケーションとは】正しさは凶器である

多くの人は、自分のモノの見方や、考え方、価値観が、自分の生まれ育った環境によって作られた、自分独自のものであり、他の人には他の人なりの、モノの見方や、考え方、価値観がある、ということに気づいていない、あるいは深く理解していない。少し前までの私も、まさにそうだった。

正しさは凶器である

そのことに、気づいていないとどうなるか。他人が自分と違う考えを述べたとき、無意識に、私の考えが正しくて、相手の考えが間違っている、という風に解釈する。そして、相手は、なんで、そんなこともわからないのだろう、と馬鹿にしたり、あるいは、相手の考えを他正しいものにしてやろう、と頑張って論戦に勝とうとしたり、あげくのはてには、こんなバカな人とは付き合えない、とつながりを断ち切ったりしてしまう。実は、それこそが、人類始まって以来、世の中に戦いや、戦争が絶えない理由なのである。

戦いは、いつも、正しさと正しさのぶつかりあいから起こる。お互い、自分が正しいと信じているから厄介なのである。そういう意味で、正しさとは凶器であると私は思う。

コロナ禍で経験した2つの正義の争い

自分の経験した身近な例をシェアしてみよう。私はつい最近まで、外資系物流会社の日本法人の社長をやっていた。2月末、小池都知事が記者会見し、コロナの感染拡大防止のため、可能な限りの在宅を都民に要請するのを聞いたとき、私は即座に、本社で働くスタッフの原則完全在宅を決め、実施した。それまでにも、そのようなことがあった場合の準備はしていた。それを本格的に発動したのである。

社員が納得して実施するためには、社長の私が「見本を見せるべきだ」と私は思った。なので、その日から、緊急事態宣言が終結する日まで、私は一日たりともオフィスには行かなかった。そのことについて、私の部下の人事部長は苦々しく思っていた。実は、本社員全員が在宅ができる環境にはなく、ごくわずかだが、本社に出社しなければならない人たちがいた。彼の考えによれば、「社長である私は、たまには出社して、その人達に対するねぎらいの言葉をかけるべき」ということになる。

そのことを、彼は長らく私に表明しなかったのだが、そう思っている間の彼の私へのあたりはかなりきついものになった。私は、困惑し、「何か私に気に入らないことでもあるのか?」と聞いたとき、彼がそのことを表明したのである。私も、その言葉をすぐに素直に受けることはできなかった。なぜなら、私には「社長が率先垂範して在宅を実施することで、社員の健康を守れる。多くの人が在宅をしやすくなる」という私なりの正義があったからである。2人は、険悪な口論を行った。これこそが「争い」である。同じ会社の社長と人事部長という仲間であるはずの2人が、ささいな意見の相違で「争い」を行うなら、宗教の違い、人種の違い、学歴の違い、収入の違いなどで、もっと大きな争いや戦争が起こるのも、無理のないことだと思えてくる。

お互いの感情とニーズを理解する「非暴力コミュニケーション」

では、どうすればいいのだろうか?自分の意見を無意識に頭から正しいと信じ込み、「他人は・・べき」と正論を吐く前に、自分と違う意見の相手に興味をもち、なぜ、その人がそのような考えにいたったのか、想像をしてみたらどうだろうか?あるいは、自分が、そのことに固執しているのは、自分にどんな感情や、大切にしたいことがあるのか、感じてみる。同様に、相手が、どんな感情を感じていて、その裏で、相手がどんな価値観を大切にしているのか、ということを推測してみる。

これは、私が、最近習い始めたNVC(Non Violent Communication,非暴力コミュニケーション)の基本の考え方である。どんな人も刺激に対して、感情をいだき、その感情の裏には、人類共通の大切にしたいニーズ(価値観)がある。普遍的なニーズ同士は決して対立しないが、そのニーズを満たすための手段が違い、それにお互いが固執するときに、争いや暴力が生まれる。しかし、ニーズを満たすための手段はひとつではない。お互いの感情とニーズを理解し、双方のニーズを満たすための手段を探せば、必ず、お互いが満足する手段を探せるはずだし、そうすれば、争いも起こらない。そのためには、自分のニーズも、他人のニーズも等しく重要であるという原理原則に立ち、双方が満足する手段を探すことをあきらめない、という姿勢が求められる。

前述したように、非暴力コミュニケーションを知る前の私は、無自覚に、「自分が正しい」というバイアスのかかった考えをもっていた。そして自分と違う考えの相手に対し「自分の考えと同じ考えになるべき」という正論で戦おうとしていた。自分の正論の裏には、自分が満たしたいニーズが隠れていて、それを正論で理論武装しているだけ、ということにも気づかなかったし、同様に、私と異なる相手にも、満たしたいニーズがあり、相手はそれを満たすべき、ということにも考えが及んでいなかった。

そんな、私にとって、非暴力コミュニケーションの考え方を知ったのは、目から鱗であった。この考え方で世の中を見ると、なぜ争いが絶えないのか。なぜ自粛警察がはびこるのか、なぜマスクをする派としない派で論争が起きるのか、など色々なことがみえてくる。そして、小さいとも思えるこういう争いをなくさなければ、戦争をなくすことなどできないな、とも思う。

平和は小さな1歩から。まずは、自分ができることからはじめてみたい。正論をふりかざさず、相手と自分のニーズを尊重できる生き方をしていきたいと思っている。

(文責:中村真紀)