私は自称、忘れ物/落とし物女王である。忘れ物/落とし物のエピソードを語りだしたら、一晩ではとても足りない気がする。ある時期まで、それは私にとって「恥ずかしいこと」であり「困ったこと」であった。しかし、最近、つくづく、この忘れ物/落とし物癖が、私が人生を生きていく上での、緊急対応力であったり、耐久力であったり、もっといえば、今はやりの、レジリエンス(しなやかさ、回復力)を鍛えてくれたのではないか、とか考えるようになった。
忘れ物リカバリーはリレジエンスそのもの
それは、なぜか。忘れ物、落とし物というのは、どんなに頻度を重ねても、本人にとっては、計画をしていない、突発事項である。突発事項が起きたなら、頭を全開にして、リカバリー策を考え、考えるだけでなく、行動をしなければならない。もちろん、忘れ物/落とし物をしたときに、まず、頭に浮かぶのは、失望であり、後悔である。「なんでこんなバカなことを、また、してしまったのだろう」「この忙しいときに、こんなことやっている場合じゃない」「ただでさえ、忙しいのに、これで何時間無駄になるんだ」など。しかし、いくら失望しても、後悔をしてみたところでも、物事は1ミリたりとも進まない。そのような気持ちにひたっているよりは、今からでできるアクションをするしかないのである。それこそが、何か困難にぶちあたっても、回復をする、いわゆる「レジリエンス」そのものではないか?
具体的に、どんな忘れ物/落とし物をしてきたかを、ごくごく一部を、具体的に語ってみよう。
幼稚園に制帽をかぶっていくのを忘れ、恥ずかしいから行きたくないと大泣きしたのが、おそらく最初の忘れ物か。小学校低学年では、公衆電話ボックスに1000円札を置いきて、母にめちゃめちゃ怒られたた苦い記憶。
同じ頃、母が買ってくれた、当時としては高額の、赤いタータンチェックの傘。自分もとても気に入っていたのに、買った当日に、電車に置き忘れてきた。傘については、懲りずに、何度か同じようなことがあり、母に「2度とあなたに高い傘は買わない」といわれたし、自分でもビニール傘しか買わなくなった。
生涯でなくした傘の数は数えたことはないが、100本を超えているのは確かだ。1000本といわれても驚かない。
もう少し大人になって、頻繁に忘れるようになったのが、家の鍵。
これは、かなり困る。一人暮らしをして、飲んで、鍵をなくして、すかいらーくで徹夜して、合い鍵を預けている妹を翌日呼び出した、とか。鍵屋を呼んで、鍵ごと変えてもらったとか。こちらもエピソードにはことかかない。
最近になって、頻繁に忘れるようになったのは、スマホと老眼鏡である。このころになると、防衛策も洗練されてきて、老眼鏡は常に3本は常備している。なくして当たり前の行動。スマホも2つはもっていて、家にももうひとつあるので、万が一なくしたとしても(そしてなくすのだが)、致命的にはならずにすむ。
しかしながら、初東京マラソンに出場した、2019年の3月。行きのタクシーにスマホを忘れたときには、さすがにまいった。マラソンだったので、荷物を軽くするために、予備のスマホは家においてきていた。スマホをタクシーに忘れたのに気付いたときには、既に保安検査を経て、会場内に入ってしまっていた。そして、受付をしようとしたら、靴にチップをつけ忘れたことに気づいた。あのときのがっかり感たるや。そして、当日、友人や会社の仲間が各所に応援にきていたのだが、連絡のしようもなく、途方にくれた。
さて、どうするか。現実を受け入れるしかないのである。大雨の中、スタートまでの時間を待つときの無力感。1時間くらいは待たないといけないのだが、スマホがないので、やることはない。友達にも連絡とれない。それでもめげずに、記録もないのに、6時間近くかけて、完走した自分をほめてあげたい。
これらのエピソードは、私に膨大な忘れ物/落とし物記録の、本当にごくごく一部であり、まだまだ面白いエピソードには事欠かない。これだけの膨大な経験をすると、何が起きるか。まず、何が起きても驚かない。がっかり感や、後悔の時間は短くなる。現実を受け入れ、過去を悔やむのではなく、未来に向かうアクションに集中する。ありとあらゆる場面を経験することで、リカバリー策のバラエティは増える。人生経験そのものである。そして、いくつかのことについては、老眼鏡やスマホのように、予防策も効果的なものになっていく。忘れないようにするのではなく、忘れて当たり前の体制だ。
忘れ物はリレジエンスを鍛える最強トレーニング
これらのことを、これだけの回数、経験するというのは、レジリエンスのスキルを鍛える上では最強だったのではないか、という気がしてきた。だからこそ、私は、ものおじしない、勇気がある、決断が速い、さばさばしている、などの評価をまわりからいただくようになり、複数の外資系会社の経営者を約10年やることができ、それなりに幸せで面白い人生を生きてこられたのではないか、と思う。そう考えると、私の忘れ物/落とし物癖は、短所ではなく、神様からのギフトだったのではないか、と思える。
そう、人間はどんな人もありのままで完璧だ。長所とか、短所とか決めつけるのは、個人の勝手な思い込みや、ジャッジメントであって、いただいた命、身体、性格、すべてまるごと、天からのギフトなのだ、と最近の私は考えている。
(文責:中村 真紀)